「もう、やめた方がいいですよ」

 陸自隊員がひたすら水中捜索をするところに通りかかった警察官が、傍にいた防衛省職員に声をかけた。

 水死したご遺体は、しばらく水面に浮かんだ後すぐに沈み、1週間ほどたつと炭酸ガスがたまって再浮上するが、やがてまた沈む。その後は浮かんでくることがない。すでに、その時期になっていたことから、見かねた警察官が忠告したのだ。

 中隊長にそのことを告げると、「分かっているんです。分かってはいるんですが、どうしてもやめられないんです。合理的でないと言われれば反論はできません。でも、どうしても…。私の判断は間違っているんでしょうか?」と言う。

 効果の上がらない作業に従事させることが是か非か。長い沈黙の後、

 「そのまま作業を続けてください」と答えた。

 ある学校を通りかかった小隊が、先生から「どうしても金庫に閉まった成績表を引き上げたいんです」と頼まれた。子供が行方不明のままの親御さんに、せめてもの形見にしてあげたいという。

  泥沼の中から金庫を取り出すのは至難の業だったが、小隊全員でなんとか地上へ。そこに視察中の上官が通りかかった。小隊長が慌てて、「すみませんでした。 今後は捜索に集中しますので、今回だけは見逃してください」と懇願したところ、「素晴らしいことだ」と逆に褒められたという。

 厳密に言えば「非効率」「ルール違反」なのだろう。しかし、人の大事にする物を自分も大事にする心は理屈を超越する。それを決断し、また、見逃す勇気が彼らにはある。

 無理だと誰もが思っても、むなしい時間だと知っていても、人々は毎日、同じ場所に来て行方不明の家族を探す。その側で懸命に活動する自衛官の姿が、どんなに支えになっているだろうか。

 「俺、自衛隊に入る」

 ポツリと小学生が言った。なぜ? と聞くと、次のようなことだった。

 津波にのまれた父親が帰って来るのではないかと毎日、ずっと海を見つめていたところ、若い自衛官に声を掛けられた。理由を話すと、その自衛官は何も言わずに肩に手を置いて、しばらくの間、一緒に海を見てくれたのだという。

 震災の悲しみを乗り越えたとき、彼らの姿はもう被災地にはないかもしれない。しかし、強く優しい戦士たちの物語は日本人の心に刻まれるだろう。

【誰かのために】理屈を超越した「勇気」と「決断」強く優しい戦士たち - 政治・社会 - ZAKZAK (via fukuinorisuke)

世界で唯一殺した数より助けた数の方が多い軍隊。

(via keisuh)

2011-04-18

(via mmtki)

Reblogged from モノオキ


この写真をご覧下さい。これは、南京市民と日本軍との触れ合いの場面です。東京裁判で、日本軍は南京で30万人を虐殺したとされましたが、資料と状況証拠で検証され、それは嘘だという事が今日では明らかになっています。

2008年12月17日の産経新聞にも掲載されていますが、中国の南京記念館において、当時の写真が捏造されたものだとして、中国側が数枚の写真を撤去しているのです。

南京事件を語る時、戦時国際法、ハーグ陸戦法規と中国の同盟国であった、アメリカの日本に対する戦争犯罪を検証する必要があります。国際法では、戦時において兵士と兵士が殺し合う事を認めています。しかし、民間人に対する虐殺や民間の建物の破壊等は禁止されています。アメリカは、日本戦国に対する空襲で日本の民間人を大虐殺しました。中でも世界中から非難されている事は、広島、長崎に対する原爆投下です。全国へ対する空襲を抜きにして、原爆投下だけで日本の民間人は、約30万人以上が虐殺されました。そこで、東京裁判において、戦勝国アメリカの戦争犯罪を隠すべく中国と手を組み、南京でも日本軍は30万人殺した事にしたのです。

南京は、東京の世田谷区程度の面積で壁に囲まれた城塞都市でした。日本軍は戦闘を回避して無血入城すべく、中国国民党政府へ打診していました。それにより、1937年11月の南京侵攻前に、富裕階級は南京を脱出しています。蒋介石も南京を放棄し、政府機関は撤退しています。南京城外では、蒋介石による清野作戦により無人状態でした。
1937年12月21日に国際委員会のアメリカ人教授、ぺイツが日本大使館にあてた手紙には、南京の人口は20万人と書いてあります。その他、南京にいた外国人の資料で検証しても、当時の南京には、20万人しかいなかった筈です。20万人しかいない所で30万人を虐殺できる筈はありません。
南京に残った市民は、南京中心部の難民区非難しています。安全区委員会も市民のほとんどが難民区に避難したと記しています。当時の南京には、外国人もいて証言しています。国際法に基づき、戦闘員同士の戦闘は行われても、民間人を巻き込んだ戦闘は行われず、南京にいた外国人記者等からも、民間人を虐殺した事を目撃した人はいないのです。


これは、南京で捕虜になった中国兵の写真です。蒋介石が南京から逃げて、中国兵からすると、殺し合うより、捕虜になった方がいいと考えたでしょう。まして、一人の日本兵が大勢の中国兵を誘導する行為こそが、中国兵の意思の表れでしょう。


実際、捕虜となった中国兵が怪我をしていたのであれば、野戦病院で衛生隊が手厚く治療し、看護しているのです。

このように、日本側だけの資料ではなく、当時の敵国側の資料からも、南京事件が捏造されたものだと証明されています。1937年12月21日に国際委員会のアメリカ人教授、ぺイツが日本大使館にあてた手紙には、南京の人口は20万人と書いてあります。その他、南京にいた外国人の資料で検証しても、当時の南京には、20万人しかいなかった筈です。20万人しかいない所で30万人を虐殺できる筈はありません。


1938年1月28日付けで、ドイツ人のジョン・ラーベの文書には、南京の総人口は30万人と記されています。ジョン・ラーベは、蒋介石政権に武器を売り利益を得ていた、軍事産業ジーメンスの南京市局長です。つまり、親中反日的な人物です。その彼の資料をもってしても、南京事件後に人口は30万人になっていると記しています。日本軍侵攻の際、南京を脱出した中国人が、南京で虐殺があったとしたのであれば、1ヶ月で10万人も人口が増えるはずはありません。


良民証交付の様子


1937年12月13日、南京陥落の日、入場する日本軍を拍手で迎える南京市民。撮影は、当時の敵国アメリカのパラマウント・ニュース映画カメラマン。


南京入場の際、拍手で迎える南京市民。こちらも、パラマウント・ニュースより。


1937年12月15日、毎日新聞、佐藤振壽さん撮影。南京占領後、難民区に早くもたくさんの食べ物屋が並ぶようになりました。


1937年12月16日、毎日新聞、佐藤振壽さん撮影。大人も子供も白い布に赤丸の布を縫い付けた日の丸の腕章をしています。


日本軍侵攻後の南京で、爆竹で遊ぶ子供達。

日本軍が南京に侵攻して、わずか1ヶ月で南京の人口は、10万人増えた。南京で虐殺などがあったのならば、短期間でそれほどの人口が増えるはずはありません。


1937年12月17日、毎日新聞カメラマン、佐藤振壽さん撮影。日本軍から、菓子や煙草の配給を受け、喜ぶ南京市民。


1937年12月19日、朝日新聞記者、上野さん撮影。松島部隊の日本兵と南京の子供。


1937年12月20日、朝日新聞カメラマン、林さん撮影。南京住宅街で日本兵と遊ぶ中国の子供。


南京安全区国際委員会委員、マギー牧師撮影。南京市民は笑顔で、平和の様子が移されています。日本のメディアだけでなく、外国人からも、南京の平和な様子は、資料として残されています。

Reblogged from こんにゃくメモ
男は「ゴムつけて」と言われたらナマでしたくなるが、「ゴムつけなくていいよ☆」と言われたらなんか怖くなってつけてしまう生き物である。
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だからフィリックスのガムも、パピコも半分に割れるようになってんだ。あげられるように。一人で楽しむんじゃなく、友達を作るためなんだよ。十円のあんな小っちゃなものだけどさ。子供の気持ちを大事にするお菓子なんだ。ピュアな感覚で「やるよ、ユー」って。一人で食うのはファックなんだ。あのお菓子は、すげえ世の中に大切だよ。
蔵人独白「第三回 キッズとパーティー」 - Mellow My Mind (via jinon)
2007-10-12 (via gkojay) (via kml) (via officek3) (via mitaimon) (via wideangle) (via shimobayashi) (via numberr) (via toxicc) (via tsubasa-h) (via toxicc, onk) (via futatukix) (via shitu) (via avycko9) (via to-fuya) (via rightstaff) (via soresore) (via konishiroku) (via orehmi) (via jinakanishi) (via erohi) 2010-04-10 (via gkojay) (via bucket) (via funkfumi) (via peppermintheaven) (via neetria) (via murderess-honey) (via hicobeli) (via ms88r) (via eoma)
Reblogged from b l i n d w a l k
よく「帰れま10」で外食チェーンの人気メニュー当てクイズやってるけど、本当に帰れないのはお店のスタッフなんだろうなと、ワタミの件で思った
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渡邉氏の著作を読むと分かるのだが、この方は本当に意志が強い方だ。まさに鋼の意志と言って良いだろう。

若い時から高い理想を掲げて佐川急便で働き開店資金を貯め、「つぼ八」のフランチャイズ店を出し、そこから一代でワタミグループをここまでの規模に育て上げた。

本の中にも、渡邉氏の鋼鉄の意志を強く感じる箇所が幾つもある。

その中には、「20代は仕事のことだけ考えればいい」や「睡眠時間を削ってでも手に入れたかった教養」など、自分を追い込み厳しい環境で努力をし続けた軌跡が書かれている。

そしてその自分への厳しさが、時として部下への厳しさへと転化されてしまっている記述もある。

幹部の部下がインフルエンザで40度の熱を出して仕事を休んだ日に、「一日に一回しか職場に電話を入れなかった」という理由で本気で怒ったと書かれている。

そしてそこには、「たとえ休んでいても、仕事のことが心配で心配で仕方ないというのが、本来あるべき姿なのではないでしょうか」とも付け加えられている。

強い人間が、意志の力で自分を追い込むのは良い。他人に迷惑がかからないからだ。

でも、その厳しさを他人に要求することは、時として危険ではないだろうか。

インフルエンザで40度の熱がある人に向かって、会社に一度しか電話を入れなかったから怒鳴るというのは、どうだろう。

怒鳴られた幹部は、次からどんな病気で具合が悪くても出社するようになるだろうし、その幹部の部下にも同じように「体調不良でも休むな」と強要するようにならないだろうか。

そして、このように他人に厳しい姿勢を書籍に書いて出版してしまうということは、「40度の熱がある社員を働かせるのが当たり前だ」と渡邉氏は考えているのではないか、と僕は想像してしまう。何故ならこの一節から、「意志の弱い社員を矯正する正しく意志が強い辣腕経営者」という姿勢が見えるからだ。